とらわれから自由になること

とらわれから自由になること

とらわれから自由になり、自分の人生を生きる」
~今までの役割を卒業し、ありのままの自分で生きる~

当たり前のことには、当たり前すぎて、それが変わっていることだとは気づきません。

日本人では、白いご飯を食べる時は、お箸を使うことが多いでしょう。
西洋では、フォークトナイフを用いる事が多いです。違う文化では、手を使って食べることがあります。

また日本では、家に入るとき、玄関で靴を脱ぎます。
アメリカであれば、靴のまま家に入るでしょう。

車が日本のように左側通行の国があれば、右側通行の国もあります。
どちらが正しいという訳ではなく、国によってルールが違うだけです。

このように、文化によって常識は異なります。
自分達が当たり前だと思っていることも、その文化では当たり前というだけで、他の文化の人から見たらそうではありません。
このように、真実だと思っていたことも、作り上げられたものなのかもしれません。

目玉焼きにしょう油をかけるのが普通の家庭もあれば、塩コショウをかけるのが普通の家庭もあるでしょう。
中には、ソースをかけるのが普通、という家庭もあるかもしれません。
小中学校で、なにげなく話題があがって、「今まで普通だと思っていたけど、家のルールは変わっていたんだ」と周りのルールに驚いた経験は、誰でもあることでしょう。

日本人が海外で生活することによって、初めて日本の良さに気づくこともあります。
違う視点から見て、初めて色々なことが見えてくるのです。

今回は『自分の常識が、誰にとっても本当に真実なのか』ということについて、考えてもらいました。

自分の信じていた常識だったものが、全ての人に当てはまる常識なのか、それともその家庭の中だけの常識なのか…
その考えを信じている人もいれば、違う考えを信じてる人もいるのか…
色々な角度から検証していきました。

父親、母親、兄弟など身近な人が…
どのような信念(ビリーフ、スキーマ)を大切にしていたのか?
あなたが、どうすると機嫌がよかったのか?
あなたが、どうすると機嫌が悪かったのか?
あなたに、どう振る舞うことを求めたのか?
あなたはそう振る舞うことで、何が手に入ると信じていたのか?
それはルールは多くの人に当てはまるものなのか?

そのようにいろいろな観点から、今まで常識だと信じていたことについて、改めて検討してもらいました。

その人の大前提となっている信念は、空気のようで、あまりにも当たり前すぎて気づかないものです。

例えは「何事も頑張ってやらなければならない」「相手を不快にさせてはいけないから、不快になりそうなことは言ってはいけない」「自分さえ我慢すれば、上手くいく」

世の中では一般的にいいとされる
「仕事はきちんとやらなければいけない」「人には親切にしなければいけない」という価値観が、
自分を苦しめていることさえあります。

仕事をしていて、人から頼まれた仕事は断らず引き受けて、周りの人に迷惑を掛けるから自分だけでこなそう。
そうして残業が増え、ある日身体が動かなくなり、仕事に行けなくなって、休職することになります。
そこで考えて、初めて気づきます。
やっぱり無理し過ぎたのかな、もっと人に相談すればよかったのかな、などと気づいていきます。

その人となって当たり前すぎるやり方は、そのやり方が行き詰まって、初めてその人の『常識』が自分を追い詰めていたことに気づきます。
長い目で見れば、色々な事が行き詰ったり、上手く行かなかったり、具合が悪くなるということは、その人らしく生きて行く事に気づかせてくれることに、繋がっていきます。
その時には最悪に思えても、長い目でみると、自分にとっていい転換点だったりもします。

ワークでは、いろいろな事を紙に書いて、考えてもらいました。
客観的な視点に立って、紙に書き出したことについて〈この人(自分のこと)は、今までこのような『常識』を信じて生きてきたんだね。これからもその『常識』で生きていくとどうなるかな?それとも新しい『常識』で生きていくのいいのかな?〉などと、考えてもらいました。

今まで『真実』だと信じていた多くのものが、ごく限られた限定的な真実であり、与えられたものであることが多いのです。
そして大人になってからは、昔与えられた『常識』で生きるのではなく、自分にとっていいと思える『常識』で生きていく事ができます。

これから先の人生を、どのように生きて行くかを決められるのは、自分自身です。
他人が大きな影響を与えているように思えるけど、それは過去の残影で、幻想であることに気づいてもらいました。

あなたはこれからの人生どのように生きますか?
どのような『常識』を持って、生きていきますか?
それを唯一決められるのは、あなた自身だということに気づいてください。